自ら見て盗まないのは危機感がないから。
昔、「料理人の世界は料理の作り方を教えるのではなく、師匠が作っているのを見て盗んで学ぶ」と言うことをわたしの祖母に何度も言われたことを覚えています。
そして、そのことが頭にこびりついていたのか?わたしは常に誰かがやっていることを見て「こうやっているのか!」と無意識に盗む癖が付いています(笑)
危機感があるから
「なぜそんな癖が付いているのか?」を考えてみると祖母に言われ続けたこともあるのでしょうが、自分に危機感がある事が大きいように思います。
仕事場にいるこの人がもし病気になったら「誰がこの仕事をするのか?」という危機感があるんですね。
ある意味、ビビりです(笑)
これってわたしには当然の感覚だと思っていたのですが、そうではないようです。
大体の人は「その時はその時で誰かがやってくれるだろう。。」ぐらいの感覚。
「それは自分の仕事ではない」「言われていないので、その仕事を学ぶ必要はない」といった感じなわけですね。
自分はディフェンスじゃないから?
これをサッカーに例えるとどうでしょう?
自分はディフェンスじゃないから、守ることを学ぶ必要はない。自分はオフェンスじゃないからそこまで前に行く必要はない。自分は前線の選手だからロングボールを蹴れる必要はない。
などと言っているようなものではないでしょうか?
いつ何時、今やっている仕事以外のものが自分に降りかかってくることなんて普通にあるものです。
自分は経理じゃないから、自分は営業じゃないから、自分は課長じゃないから、自分は正社員じゃないから、と言って目の前にあるせっかくの学びを得ようとしないのはアホだと思います。
サッカーに置いても、
自分はフォワードじゃないから、自分はボランチじゃないから、自分はディフェンスじゃないから、自分はキーパーじゃないからと言って何も受け付けようとしないなら、サッカーというものを理解しているとは言えないし、サッカーが上達することなどあり得ないでしょう。
危機感は愛(笑)
先ほどは危機感と言いましたが、これは責任感とも捉えることができると思います。もっと極論で言えば「愛」にもつながるのではないかと思います(爆)
会社に対して愛があれば、どんな時でも対応できるようになっておこうと思いますし、チームに対して愛があれば、誰かが負傷した場合にも自分が代わりにできるようになっておこう。
またはあいつのプレーを知っておけば、自分のやるべきプレーが見えてくるといったものもチームに貢献できるといった愛だと言えます。
目に映るものすべてが修行
禅の修行では、別の当番を担当していて「今日から食事当番をやれ」と言われたときに、最初からそれができないといけないそうです。ですから、薪割りや炊飯も、自分が当番でなくても、つねに人がやっている様子を見ていないといけません。
これは、要するに今やっていることだけが修行ではなく、目に映るものすべてが修行だから。極論を言えば、自分の周りにあるものすべてが生きるための修行であるからと言えるでしょう。
もちろん一つのものに対して一生懸命取り組むことは重要です。しかし視野を狭めてはいけないと思います。サッカーに置いて言えば、チームが勝つためには何が必要か?何をしなければいけないかを考えれば、自分が学ぶべきことは目の前にたくさんあると思います。
そしてそういう意識を持たなければ、あっという間に必要とされない選手になってしまうはずです。
そういう意味でも、いい意味で危機感を持ち、学ぶ必要があると考えます。





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